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【調査士ねっとわーく】小説「1984年」ジョージ・オーウェルを読んで

 自分が小学生の頃であったが「ミグ25」という戦闘機が日本の飛行場に飛来、着陸し大変な話題になったのを思い出す。
 当時は小学生であったので「亡命」の意味も良く知らず、その後の顛末も理解出来る年齢ではなかったのであるが、日本の空港にソ連の戦闘機が置かれている光景だけは異常に覚えている。

「ミグ25事件」は 1976年9月6日にソ連の現役将校ヴィクトル・べレンコという人物が函館の空港に着陸し亡命を求めた事件であり、その後アメリカに移りべレンコ氏は大韓航空機撃墜事件ではソ連飛行士の会話を鑑定したり暗号解読の仕事に従事したりし近年ではアイダホ州で航空イベント会社のコンサルタントをしているというから彼は亡命して良かったのだろうと思う。
 ミグ25の機体は詳細に調べられ、思われていたほどアメリカの脅威ではないという事が判ったそうで理由はチタニウム合金と思われていた機体はステンレス鋼であり電子機器は真空管を使った旧式のものであったという事である。

 またこの事件は日本領空の管理体制の甘さを露呈した事件でもあった。
 これらはすべて最近知った事で当時の自分には知るよしもない事柄であったが「ソ連という国はどんな国なのだろう?」という謎に満ちたイメージを心に植えつけられた事件ではあった。

 電子書籍のガシェットを入手しさて何を読書しようかと考えた時に ふと想ったのがこの「1984年」という小説であった。
 題名からして連想するのは「1Q84」であるが 1948年作品である「1984年」は村上春樹の「1Q84」に相当な影響を与えたというか「現代「の1984年」を描いてみたかった」という村上氏の談話は有名ではないだろうか。
 自分は「1Q84」は読んでいるので 本当に興味本位で「1984年」を電子書籍読書の第1号に選んだのであるが この挑戦は結構はまってしまったし長大な小説なので(電子書籍なのでページ数は不明であるがアマゾンで調べると512ページとある)訓練にもなった。
 電子書籍を読むというテーマでいけばこの程度の事で済むがやはりとんでもないと想わせたのはその小説「1984年」の内容そのものである。

 年代設定は当然1984年である ジャンルを云えばSFであろう。
 主人公であるウィンストン・スミスという男は ロンドンと思われる国で情報を書き換える仕事に従事している「情報の書き換え」は国を挙げての大事業であり歴史に始まって新聞、娯楽などありとあらゆる情報は彼の職場で操作され情報の内容は全て政府の都合の良いように書き換えられ世に流布される。
 ウィンストンは酒もタバコも嗜むのであるが見た所それは酒やタバコと云えるような代物ではなく酔いもしないし陶酔感も味わえない偽物に違いないと思うし、コーヒーや食品さえもまがい物で国民はそれさえ知らずにそれらを美味しいと考えて食しながら生活している。

 社会を統治しているのは「ビックブラザー」という男であり街じゅう至る所個人の家の中にまで設置されたテレスクリーンというテレビで双方向に監視されている。
 真実を記録すべく自宅で日記を書いてみたり禁止されている「愛のある異性との交際」をしてみたりとウィンストンには世を反目しようとする性格であり読者としてはそれが救いだなと思うのである。

 子供の娯楽が人の処刑を観る事である世界なんて普通ではない。
 ウィンストンは彼女であるジュリアと秘密の部屋を探しだして同棲を始めるのである。職業がら本物のコーヒーをくすねる事の出来るジュリアは秘密の部屋にコーヒーを持ちこみ本物のセックスと本物のコーヒー、タバコ、酒をウィンストンと味わうのである。
 物語の真ん中あたりまではそんな調子で自由を満喫するウィンストンとジュリアの「人間らしい生活」が描かれているのである。

 ただ、言論統制のされたおよそ民主的社会からかけ離れたその世界の描写はどこかぎこちなく、その「ぎこちなさ」は恐らくワザとそのように描かれたのであろう。その「ぎこちなさ」がそのまま主人公達の心の風景を現わしているのである。
 ウィンストンとジュリアの「人間らしい生活」は永遠に続くと思われたが実は限りあるものであり、ある時2人は何ものかに拉致されオブライエンという男が統括する巨大な建物内でありとあらゆる拷問を受け、やがて社会に準ずる「廃人」に改造されていくのである。
 殺されてしまえば楽なのにそれはさせずに惨い拷問の描写が延々と続き、巨大な建物の何所かでジュリアも同様の拷問を受けていると思われるがすでにウィンストンに彼女を想いやる気力は失せている。

 切ないというかネズミの荒れ狂う籠に顔を突っ込まれるという究極的な拷問を前についにウィンストンの精神は崩壊し「この拷問は私ではなくジュリアに与えて下さい」と叫んでしまう。

 ここからが物語のクライマックスで一見平穏な生活に戻る事が出来たウィンストンの優雅な生活が描かれるが精神は完全に書きかえられ、もはや日記を記録するような事をする人間ではなくなってしまった。
 なんとジュリアにも再会するのであるが、スレンダーであった彼女もやつれ果てて太り面影はすでになく果てしない拷問の果てに「互いに 互いの事を裏切った」という事を2人は確認しあい、再会を約束するも嘗ての愛は崩壊してしまった事を確認するのである。

 この作品を論じ始めれば、話題は民主主義と社会主義の違いとか国による国民統制の恐ろしさとか、そういう方面に行かざるを得ない。正直それを論じるには相当な勉強と鍛錬が必要であり、自分のような不勉強な人間が何か言葉を発しても全て屈服されてしまう事は必至なのでそれは辞めておきたい。

 1984年のロンドンのイメージは冷戦時代のソ連を根源に置いたらしく、赤いカーテンの向こう側でどのような事が行われているのかを想像を巡らすあたりから小説の表現が始まっているのであろう。
 1976年の「ミグ25事件」などはまさに小説「1984年」を想わせるし、ウィンストンのイメージはそのまま ソ連の現役将校ヴィクトル・べレンコという人物を当てはめる事が出来る。
 しかし実際のソ連と云う国は崩壊というか解体し赤いカーテンの向こう側では案外平穏に豊かな文化を持って生活している国民が居て「1984年」を書かせたイメージの世界は空想であったという事が判った訳である。
 勿論小説なので想像は当たらなくても良いのであるが、如何に冷戦時代にアメリカという国がソ連を恐れていたのかというのはこの小説を読めば判る。

 良く読んでいくと「トマス・ピチョンによる解説文は割愛します」みたいな事が書いてあり代わりの解説文が添えてあるのであるが、誠に残念な反面、面白いなと思うのは小説内で登場する英語を単略化した「ニュースピーク」という言葉の解説文である。
 この言語そのものが作者であるジョージ・オーウェルによる想像物なのであろうが物凄いリアリティーがあり、内容としては全ての言語表現を単略化する事の狙いは言論統制に他ならないというメッセージであろうと思うし、作者が如何に「1984年」執筆に人生を捧げたのかが理解出来る部分でもある。

 1984年も2001年も通り過ぎて今は2018年である 過去の小説家や映画監督の思い描いた未来はやってこなくて 案外過去を想いっ切り引きずった世の中になっているのではないか?
 コンピュータがこれほど世の中にあふれて情報の渦に皆巻き込まれているというのは想像できなかったであろう。言論統制など出来ないし、電子端末でクーデターさえ出来る時代である。
 思えばこういう世の中が一番恐ろしいのかもしれない。
 はたして50年後、100年後、日本と云う国が存在しているのかさえ危ういなと思う。
 そろそろ文章を終えましょう。現代のオブライエンに拷問され、人格を改造されるのだけは勘弁して欲しい。

(記事 大和支部広報員 門田 哲生)

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